映画批評【アントマン&ワスプ:クアントマニア】51点 《ヴィラン、それはヒーロー映画の肝》

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【①.映画序盤の「スターウォーズライク」な世界観が面白い。ポップでカラフルで細部までこだわって作られた、上出来のビジュアル】

【➁.映画中盤までのギャグがキレキレ。同シリーズ第一作目を彷彿とさせる】

【③.マイケル・ダグラスやミシェル・ファイファー、昔から見ているファンなら必ず覚えているあの男・・・等、アントマンシリーズならではの脇役キャラにしっかりとスポットを当てる作り】


【①.メインヴィランがショボイ×ダサい×弱いで散々。物語が締まらないし、盛り上がらない】

【➁.メインヴィランが登場する中盤以降映画が延々盛り下がり、グダり続ける。中盤以降は地獄】

【③.ピンと来ない上にどうでもいいストーリー。今後MCUでこのストーリーを広々と展開していく事を思うと頭が痛い】

【④.アントマン、ワスプ両方に新技、新ギミック等の新機軸が用意されていない。本作はアントマンのアクション映画だが、アントマンのアクションが全部面白くない】


※※※※※※※※  以下映画のネタバレを含みます  ※※※※※※※※


Ⅰ:概要

✔ 「アントマン&ワスプ:クアントマニア」は2023年2月に公開された、MCUのアントマンシリーズ第三作目。ポール・ラッド、エヴァンジェリン・リリー、マイケル・ダグラス、ミシェル・ファイファー等シリーズのメインキャストが引き継がれているが、アントマンの娘役だけは変更でキャスリン・ニュートンが演じている。ハリウッド版ポケモン(2019)で「人間に化けたメタモンが怖過ぎる」というネタが話題になったがその時メタモンが化けていた人間というのが彼女の演じていたヒロインだ。

メインヴィランはディズニープラスで限定配信されているドラマ「ロキ」でのみ登場した征服者カーン。演じるジョナサン・メジャーズは近々公開される「クリードⅢ(2023)」でクリードの相手ボクサー役を務める俳優。老け顔でパッと見はどう若く見積もっても40代中盤だがまだ30代前半の若者。付け加えておくとドラマ「ロキ」に登場したカーンと本作のカーンは別次元の別人。


Ⅱ:よく出来た序盤

✔ アントマンシリーズを公平な目で観ていた観客にとって、本作を鑑賞する上での懸念点は「さらにつまらなくなってないだろうな」という事ではなかっただろうか。アントマン一作目は歴代MCU作品の中でも非常に良く出来た部類だが続く二作目「アントマン&ワスプ(2018)」は監督のモチベとアイデアが切れている事が作品を通して伝わって来る程のボヤけた出来で、同じ監督が手掛けている本作が同じパターンでさらに落ちている・・・・・・・・可能性は危惧されて当然だ。

本作は結局大した作品にはなっていないのだが、それでも序~中盤の流れはすごく良く出来ている。家族揃って仲良く突入した量子世界は簡単に言えば「生物みの強いスターウォーズ」のような世界だ。一所にひしめき合う面妖な造形の宇宙人達が駆っている乗り物が機械か生物か、というのがスターウォーズと本作の量子世界の違いで、後は端々まで本当によく似ている。スターウォーズか、もしくはギレルモ・デル・トロ作品(「ヘルボーイ(2004)」「パンズ・ラビリンス(2006)」「シェイプ・オブ・ウォーター(2017)」等の監督)のようなブサカワの異形が多数登場する世界観を受け付けない人には厳しいが、そうでなければ本作の前半部分はただ眺めているだけで十分目を楽しませる事が出来るだろう。

量子世界に登場した私のお気に入りのクリーチャーはアスガルドのデストロイヤーに似た顔が筒になっている戦闘員、非常時には戦車のように駆動して戦う「戦車家」、そしてビル・マーレイだ。彼が旧知の仲であるミシェル・ファイファーに向かって放つ一言目は「生きてたのか」だがそれには「こっちのセリフだ」と返す他ない。モコモコに膨れ上がって今にも崩れ落ちんばかりのビジュアルを保ったままここ何十年もいいペースで仕事をしている彼だが、相変わらず息災なようで何よりだ。現在70代前半だがどう見ても老け過ぎではないだろうか。

この映画前半部分はギャグパートもキレキレだ。アントマンは一作目がベストだが本作の前半部分はギャグ・ビジュアル・テンポ総じてそれに全く引けを取らない。前半部分だけは誰にとっても十分楽しめる物に仕上がっていると言えるだろう。


Ⅲ:ヴィラン、それはヒーロー映画の肝

✔ 本作のメインヴィラン「征服者カーン」は、映画中盤まで回想シーン等で語られるに留まる。そこに出てくる彼は知的でミステリアスな上憂いに彩られていて、この時点でのキャラ造形は悪くない。「後に悪虐の限りを尽くす大ヴィランの覚醒前・闇落ち前」としては悪くない描写だ。

コスチュームに身を包んだ状態のカーンは、私は悪くないデザインだと思う。シンプルだが要所要所に装甲のようなしつらえが施されている点や取り付けられているマントが小ぶりな事が「戦闘用」を彷彿とさせ、渋さを感じる。戦闘時には顔が青いプロテクターで覆われるがこれも不気味で、ある種の色気が漂う。

しかしMCU最大の敵であったサノスの後釜だと考えると役者不足もいいところだ。カーンが戦闘に用いる能力は「ブラスターのようなエネルギー波」「念動力」「バリア」等だがどれも自分が開発した兵器をコスチュームに仕込んだ物で、素の彼は非常に弱い。終盤スーツが故障して能力を使えなくなったアントマンと徒手空拳で渡り合うシーンがあるが、その実力に大差はないようで、いいところブラック・ウィドウと同じぐらいの強さだろうか。打撃の度に発する「アァイィッ」という間抜けな掛け声が哀しい。

フル装備の状態で戦ってもカーンは大した事がない。フィジカルが並の人間が自身で開発した強力な兵器に身を包んで戦うという点でアイアンマンと似ているが、化学力の差で彼とのタイマンには勝てたとしてもアベンジャーズ複数人で囲めばいちころなのは目に見えている。アベンジャーズのフィジカル最強ハルクを素手で圧倒し、インフィニティ・ストーンをフル装備している状態では何人で束になっても決して敵わなかったサノスとカーンでは格が違い過ぎる。彼はこの映画では結局「大型犬サイズの虫の大群」+「お笑い担当の端役」にカミカゼアタックされる事で敗れているがこんな情けない敗北に甘んじるヴィランは昨今のMCUにおいて極めて稀なのではないだろうか。

またカーンが人を殺し世界を破壊する動機は「数多の次元に存在する自分を残らず滅する為」だがこれには「知らねーよ」としか返す言葉がない。こんなにパッとしない人間が何人も集まって殺し合うか合わないかに興味を持てる観客がいる筈がないし、時間がもったいないからその思惑自体聞かせて欲しくない。誰も関知しないから誰の目にも触れない所で勝手にやってくれと言いたくなる。

サノスが宇宙人口を半分に減らしたがった理由は「そうすれば残った人々が豊かな生活を送れるから」だ。それはエゴイスティックな誇大妄想に後押しされた非道な行いではあったものの理屈の上では一応の筋が通っていて、だからこそ興味を引かれる。宇宙規模で物事を考えた上でこんなにも「強い」人物がその人生を捧げて理想を実現しようとする姿にはある種の美学が宿っていて、「こんな奴にアベンジャーズは本当に勝てんのかよ」という緊張感が生まれるのだ。

また俳優自体を批判してしまう事になる為気が引けるのだが、カーンにはパッと見で強者だと感じさせるオーラや華がない。作中ではずっと引きに構えて冷静な大物ぶっているが、パッとしない顔立ちの人間が眉をひそめて顎を引いている様子には失笑を禁じ得ない。口先だけで時間という物はこうで多次元宇宙とはこうでと講釈を垂れているが彼が作中でやった事は結局一般市民を虐殺する事と高齢の女性をいたぶる事と、檻に閉じ込められたJKを虐める事とアントマン一家とかいうアベンジャーズ最弱の一角を挫く事だけなのだ。「弱そうに見えてやっぱり弱い」「口先だけのザコ」そんなメインヴィランはMCUに今更いらない。

サノスを演じていたのはジョシュ・ブローリンだがスキンヘッドに剃り上げてハルク程の巨体を与えられた彼をヴィジュアル面で越えられるヴィランはなかなかいないだろう。CGの化粧を施されていても彼の凄みは健在だ。ごちゃごちゃ説明する前に画で分からせてくれる、シリーズ通しでの大物ヴィランはそのくらいでないと駄目だ。

征服者カーンのヴィランとしての格はいいところガーディアンズ一作目(2014)のメインヴィラン、ロナン程度なのではないだろうか。見た目もそこそこ似通っている両者だが、奇しくもロナンはサノスの手下だ。やろうとしている事のスケールは大きくても、やはりカーンというのはサノスの遥か下の存在でしかない。


Ⅳ:全部が全部お前のせい

✔ カーンが実際に登場してからの中盤以降、本作は一気にテンポを落とし始める。大した見所もない癖にやたらと出張って尺を取るカーンを、監督が扱い切れていない印象だ。

色んな意味でパワー不足のカーンを軸に話を進めると当然映画が盛り下がる訳だが、それを払拭せんと監督が入れ込んだのが蟻であるアントマンと蜂であるワスプになぞらえた「大量発生・群れ成しシーン」だ。「巨大化してしまった宇宙船の核を元のサイズに戻すだけ」という面白くないくだりに障害を加えて盛り上げる為に無理矢理作成されたシーンだが、これが全く意味が分からない。「多次元を司る物」に近づいた事で複数の自分が現れるのはまだ分かるが、それが核の中心部に近づいてバラバラに崩れる理屈が分からない。多分ピム粒子で巨大化させられた事で「核の核」が露出している事が原因だと思うが巨大化した事で中身が露出してしまうならスコットだってとっくにバラバラ死体になっている筈ではないか。

また無数に表れた分身の事を量子世界に明るいミシェル・ファイファーが「気にしないでいい、只の《可能性》だから」と言付けているが実態があって自我もあって自分こそが本物と信じて勝手に行動し、あまつさえ目標達成の邪魔をする《可能性》はおいそれと無視出来る存在ではない。ある者は無謀に突撃して死にある者は圧死し、またある者は怖気づいて何も成さない、といった多様性こそが複数いる《可能性》の正しい在り方だと思うがここで現れる《可能性》はお互いに干渉して押し合いへし合いしてがんじ絡めになり、最終的には全員で協力して一つの目標を達成してしまう。これは《可能性》というより《影分身》に近い物だと思うが、だったら多次元宇宙を司る物体の傍に寄ってそれが大量発生したのは何故なのか。徹頭徹尾理屈が通らない。

簡単に言うと監督は「蟻・蜂になぞらえて大量発生して寄り集まるアントマンとワスプの画を撮って中盤以降盛り下がりが止まらない自作に活を入れたかった」ただそれだけの為にこのシーンを入れ込んでいるのだ。「カーンに追いやられて核の中心部の傍に来た」地点から無数に分かれて現れた筈の可能性達の中にサーティワンのユニフォームに身を包んだギャグ担当スコットがいるのがその証拠、「ちょっとでも面白くなればと思って」このシーンに関して監督の思惑はそれに尽きる。

同様に「自宅で飼っていた蟻が量子世界に付いて来てしまったせいで急激に発達し、終盤に心強い味方として現れる」というプロットもつまらない後半部分に取って付けられた「盛り上げ要素」である事が明らかだ。映画終盤に進化した状態で現れたこの蟻達は要約すると「大型犬~猛獣ぐらいの大きさで群れを成していて、化学力まで持った心優しき化け物」だがこんな物は「量子世界にそもそもこういう土着の生き物がいて、それと親交を築いて手懐けた」とすれば済む事で、わざわざ「賢い蟻」を量子世界突入前の序盤に伏線として配置してまでやる必要はない。この「賢い蟻」はマイケル・ダグラス演じるピム博士の作だが彼が成長した蟻を引き連れて大仰な音楽をバックにドヤ顔で佇むシーンは本当にサブい。犬ぐらいのサイズの蟻なんかフェーズ4のMCUでは何匹連れていても何の自慢にもなりはしない。

甲斐甲斐しい付け焼刃の努力も虚しく、本作の後半部分は徹頭徹尾本当につまらない。一展開毎に「だから何」「もう分かったからはよ終われ」と胸の内で合いの手を入れるまでになってしまうが、こうなると前半ではあんなに面白かったギャグも只々うっとうしいだけになる。これも全てカーンという、どうでもいい目的の為に動く、魅力の無いメインヴィランのせいだ。そんなに時空を超える旅がしたいならついでにどこでもいいからお前がMCUに登場しない世界線に連れて行ってくれないかとお願いしたいところだ。


スケールの大きさ=面白さ?

✔ 私が見たところMCUは「エターナルズ(2021)」以降まともなシリーズ作を出せていないようだが、これは各作品を手掛けている監督の腕以上に、MCUのスケールが膨れ上がり過ぎて最早一介の製作者に扱えるレベルを超えてしまっているところに原因があるのではないだろうか。

今後シリーズ作を股にかけてアベンジャーズの敵になりそうな大型ヴィランは①自由に次元を渡り歩き次元ごと破壊する事が出来てしまう征服者カーン、➁現実を思うまま書き変えられるスカーレット・ウィッチ、③宇宙全体を統括し支配するエターナルズの上位存在等だがどれもやたらにスケールが大きく、取り留めがない。「なんでも出来る」というのは観客にとっては「具体的にどんな事をするのか想像しようがなく、ピンと来ない」という事であり、それはさらに「楽しみに思えない、期待出来ない」「頭が付いて行かない、付いて行く気も起きない」という結果を生んでしまう。MCUはいくら何でもスケールをいたずらに広げ過ぎてしまったのだ。

映画の面白さは、話のスケールに依らない。全身をハイテク兵器で固めたアイアンマン(2008)や宇宙の遥か彼方から飛来したマイティ・ソー(2011)を描いた後にただちょっとフィジカルが強いだけの男同士が殴り合う「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー(2014)」があんなに面白かったのがいい例だ。シリーズを盛り上げる方法はスケールを右肩上がりにする事一択ではない。

それでもMCUのインフレが止まらないのは製作陣にスケールを上げないで面白い映画を作れる自信がないからだろう。スケールが大きくても結局最近のMCUは面白い物が作れていないのだが、それでも「前よりスケールの大きい物を作った」という既成事実だけは残る。ネタとモチベの切れたYouTuberが再生回数の盛りや画質・作画等の作品の本質から外れた外的な部分に殊更力を入れる事と同質の逃げが、そこにはある。

そんな下らない事をやっているから本作は「アントマンの映画」でありながら「アントマンの映画を観たがる観客」が一番欲している「アントマンらしいアクション・ギミック」が手薄になっている。アントマン、ワスプ共に今作では特に新機軸を披露せず、五年も前の前作と全く同じ調子で伸び縮みして弱めのブラスターを撃ったり手裏剣を投げたりするだけだ。強いて言うならアントマンの娘がアントマン・スーツを着用してヒーローデビューする(ヒーロー名はスタチュー、もしくはスティンガー)のが新機軸だが、アントマンの単純下位互換なので一切見所が無い。

スケールを拡張する事に捉われ本質に目を向ける事を忘れたMCUは、今後こういった取りこぼしをシリーズを挙げて繰り返していくだろう。それが極まりファンの愛想が尽きた時が、きっとMCUの最後だ。

アベンジャーズの絶対的リーダーキャプテン・アメリカが優れているのは能力が豪華だからでもやる事のスケールが大きいからでもなく、ヒーローとしての本質を突いているからだ。他でもないMCUの製作陣には今一度、その事を思い出して欲しい。



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