映画批評【クリード 過去の逆襲】34点 《ロッキーを継げなかった男》後編

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「後継作」ではなく「後日譚」

✔ 「クリード」の前二作はどちら共かなりよく出来た作品だったが、今回その流れが断ち切られると共にこのシリーズに起きた変化がもう一つある。それは「スタローン(ロッキー)のシリーズからの離脱」だ。

シルヴェスター・スタローンの出世作にして一の代表作、「ロッキーシリーズ」は「人生のその時々で、別の何かと違う形で戦い続ける事を余儀なくされる男の人生」を描く映画シリーズだ。だからロッキーは歴代のシリーズ作品の中でいつも何かと戦っている。敵は「うだつの上がらない現状」だったり「家族問題」だったり、「加齢による身体機能の低下」に伴う「進退問題」だったり「老い」だったり「病」だったり色々だが、それは世を生きる全ての男性の人生にも等しく降りかかる問題でもある。

「ロッキー」と言えば「ボクシング映画」だが、実はロッキーはボクシングを題材にしていなくても成立する。空手やプロレスのような他の格闘技でもいいし、何ならサラリーマンや警察官、スーパーの店員が主人公でもいいかも知れない。「主人公が男の人生にその時々で降りかかる何かと正面切って対峙し、逃げずに戦い続ける人生を全うする」というプロットが守られていればそれはもう「ロッキー」だ。ロッキーがボクシング映画になった理由はスタローンの一番興味があるスポーツがボクシングだったから、ただそれだけの話だろう。

「ロッキー」はスタローンの人生そのものの投射でもある。それまで無名でありながら30歳にして(役者としてもボクサーとしても瀬戸際の歳)この映画の脚本を書き上げ一躍スターダムにのし上がった彼の人生はシリーズ第一作目のストーリーと完全にリンクしていて、その後もスタローンはロッキーと同じスピードで歳をとり、同じ体験をしながら生きていく。下の世代が台頭する脅威や尊敬できる同業者であり親友でもある仲間の存在、加齢による体の衰え、進退問題、世代交代、家族問題、老い、先立つ人を見送る喪失感。その一つ一つを自分自身として現実の人生で、さらにもう一度ロッキーとして映画の中で、都合二度ずつ味わいながら生きるという極めて特異な人生を彼は送っている。

「ロッキー・ザ・ファイナル(2006年の作品、シリーズ6作目)」でロッキーは齢60にして親子程も歳の離れた現役チャンピオンと戦うという無茶な挑戦を行っているが、実際に親子程も歳の差のある若者(しかも本物のボクサー)に見劣りしない程体を鍛え上げ、リングに上がってアクションもこなした時点でスタローンは役者として作中のロッキーと同質の挑戦を行った事になる。「ロッキー・ザ・ファイナル」のテーマは「老いても尚戦う」だが、この作品以降もアクションを厭わず、出演作のペースも途切れさせないスタローンはその命題に今も人生をかけて挑み続けている。

「日本のアニメが好きだからそのオマージュを取り入れた」「友が敵になる展開にしたかった」等とボケた事ばかり言っているマイケル・B・ジョーダンは、そういったロッキーという映画シリーズの本質と、常にそれと共にあったスタローンの人生、それにかけた彼の想いを絶対に理解していない。理解していたらメガホンを渡されたからといって自分の趣味全開で突っ走る訳がないし、エンドロール後のアホみたいなショートアニメも制作する訳がない。ショートアニメの概要は「遠い未来でクリードの血を継いだ子孫達が、宇宙を舞台に超能力を交えた格闘技の試合で鎬を削る」だが、そこにロッキーの要素が一切登場しないのがいい証拠、彼は「クリード」を通して「ロッキー」を継ぐ気がないし、何をすれば「ロッキーを継いだ」事になるのかそもそも分かっていない。後継作で主役を演じていながら彼にとっての「ロッキー」はシンプルなボクシング映画の認識でまず間違いない。

ロッキーシリーズのメインテーマは「戦い抜く男の人生」だが、生まれつき抱えた負い目を払拭すべく戦うところから始まったクリードシリーズの最たるテーマは「人種差別問題」だ。しかしシリーズ一作目で「I’m not a mistake(自分が父と愛人との間に生まれた子である事に対する発言だが、アメリカ社会においてハンデを抱えがちな黒人として生まれた事とも重なる)」の想いを胸に生まれつき抱いていた自己肯定感の低さを打ち破ったクリードはその時点でメインテーマを解決している。

「人種差別問題」に次ぐテーマはヒロインと娘の抱える難聴、つまり「障害」というポリコレテーマなのだが、これに関してもそれを抱えるヒロインを第一作目で活き活きと魅力的に描く事、娘が生まれた際にスタローンが言う「お前が娘を愛せるならどんな状態だろうとこの子が自分を哀れむことはない(親の愛情があれば子の障害は本質的な問題になり得ない)」という二作目のセリフ等で解決してしまっている。

「クリードⅡ」のラストで「これからはお前の時代だ」の言葉と共にロッキーからクリードへ(=スタローンからジョーダンへ)、つまり白人から黒人へのたすきの受け渡しまでもを済ませた時点で、実は「クリード」という映画シリーズの描くべきテーマは描き尽くされている。やりたい事も特にないから主演に丸投げしてみるか、というのが今回マイケル・B・ジョーダンにメガホンが渡った経緯だろう。

私は長い事ハリウッドに蔓延っている「ポリコレ」が別に嫌いな訳ではないのだが、たった二作で言いたいことを全部言いつくしてしまえるポリコレとかいうテーマ、薄っぺら過ぎないだろうか。「人種差別問題」一つを例に挙げてもこんなものはセックスすれば子供が作れてしまう時点で「皆同じ」が立証されてしまっている生き物達が表面的な「色違い(ゲームの世界では《同じ》《変わり映えしない》の意味合いが強い)」で互いを差別化しようとする機能不全を起こしてしまっているだけのアホウな問題で、クリードがやったように分かり易い成果を上げて自己肯定感を上げるだとか、色違い同士を一体ずつ、しばらく同じ空間に押し込めて協力関係を作った上で何かに当たらせるといった描写一つで簡単に解決してしまう。「簡単に解決できる」という事は「大した問題ではない」という事と同義だ。映画のメインテーマに設定して長々と講釈を垂れる程のものではない。

シリーズ三作のうち前二作は半分ロッキーの物語、三作目は売れっ子俳優がいい加減な気持ちで作った駄作となれば映画シリーズ「クリード」は到底ロッキーの後継策とは呼べないし、「ロッキーの魂を継いだ」とも言えない。あえて表現するなら「クリード」は「ロッキーの後日譚」だ。一作目はクリードにアポロの姿を重ねて胸を熱くさせる作り、二作目は「ロッキーⅣ」の続編、三作目でロッキーシリーズの遺産を取り除いてみればやはりそこには何の見所も存在しない。「クリード」で価値があるのは前二作のみ、その二作もロッキーシリーズを基盤にする事で台本が成り立っていたのならやはり「クリードはロッキーの後日譚」と言う他ない。


戦わない時代に

✔ ロッキーシリーズを通してスタローンが描き続けた「常に戦い続ける事を強いられる、男の人生」というテーマをマイケル・B・ジョーダンが一切受け継がなかった理由が、彼が映画愛も先人へのリスペクトも欠いた見た目がいいだけのバカであるという事以外にもあるとするなら、それはやはり「時代のせい」だろう。

アメリカの映像作品を観る習慣を欠かさない人なら誰にでも分かる事だが、アメリカ社会は今「頑張るの、やめよぅよ」という諦観に支配されている。「女性」「有色人種」「障害者」「下層階級」「性的マイノリティ」等各種「弱者」を賛美する意識で始まった「ポリコレ」は、今や「弱くたっていいじゃない」「恵まれなくたっていいじゃない」「ありのままを受け入れようよ」という諦観へと至った。諦観は元より、「弱くていい」「現状に満足しよう」「頑張るのやめよう」「強い人が弱い人に寄り添えばいいんだよ」という発想はスタローンが「ロッキー」を通じて描き続けた理念とは真逆の物だ。

クリードシリーズ第一作目でクリードは生まれ持った負い目(黒人である事への暗喩)を払拭する為に戦い、ヒロインビアンカは進行性の難聴を抱えながら音楽の道を志す形で戦っている。しかし本作で聴覚障害を持つ二人の娘アマーラに、関わる大人全員が手話を用いて、手話のみで長々と会話する「弱者側に全員が寄り添う」という構図は既にロッキーシリーズの本質と相反している。ハリウッドで絶賛大流行り中であるこの類のプロットを取り入れた時点で「ロッキーを継ぐ」という使命を本作の製作陣が意識し損ねている事が分かる。

優しさが行き過ぎ諦観が蔓延り、「ありのままでいい」「頑張らなくていい」の大合唱が起きている土壌でリブートされてしまった事が「ロッキー」の理念が継がれなかった事の要因としてまず一つ。そしてもう一つはネットが普及し多様化の進んだ現代では、社会的地位を上げるだとか収入を増やす等といった理想を叶える手段が「戦う」一択に限られなくなっているという事だ。

例えばここに、いや決してここではないどこかに四十代にして…いやさ五十代にして手取り12、3万円で毎月なんとかやりくりする生活を葛飾とかいうどうしようもな…日本のどこかパッとしない場所で送るうだつのあがらない中年男性が居たとする。シリーズ第一作目序盤のロッキーも大体それと似たような状況にあった訳だが、ロッキーがそれを打開する為に採れる方法は70年代のあの時点では「戦う」以外にあり得なかった。持たざる者は才能を武器に、それも無ければ体を資本に真っ向勝負を仕掛けてのし上がっていく以外に人生を切り拓く方法がない時代に「ロッキー」は生まれた。

ネットが普及し多様化を容認する気風に満ちた今、手取り12、3万で葛飾在住の人生オワタおじさんは、その悲惨な生活ぶりを手元にあるスマホで動画に収めてYouTubeに上げるだけで多大な収益にありつくチャンスを得る。今はYouTubeもレッドオーシャンなので大抵そういった試みは失敗するが、失敗した時は次の可能性をネット検索で探ってみればいい。ブログでアフィリエイト、ネットライター、動画編集…今の世にはネットとPC(スマホでも可)さえあれば取り組める副業が溢れている。上手くいかないから次へ、合わないから次へ、条件が悪いから次へ、とテンポよく取り組む分野を変えていくこれこそ現代の「挑戦」だが、不退転の意志で歯を食いしばり、理不尽に打ちのめされても立ち向かっていくロッキーの「挑戦」とは余りに趣が違う。ロッキーの挑戦する姿勢は正に「戦い」だが、現代のは「くじ引き」に近い。VTuberがスマホゲーで100連ガチャを行うように「これだ」と思う物を引き当てるまで延々とやり直しを続ける、ネットが普及し多様化が促進された現代社会がそんな「挑戦」を可能にした。

70年代に比べると随分数を減らしたとは思うがロッキーの如く「戦う者」も現代にはやはり存在する。常軌を逸した努力量をこなし目を見張る成果を打ち出し続けるツワモノは今も変わらず各分野に存在するが、彼らは「好きでやってる」「努力する事が向いている」「新規探索性が高い」といった趣が強く、「努力や根性で結果を出した」というより「そういう素質があったから自然の成り行きとして成功している」というのが実際のようだ。その様子は「戦う」というより「楽しむ」に近い。

逆に「戦わない者」もやはり存在する。彼らは生まれや育ちに従って社会に分類され、誘導された人生を素直に生きてその全てを全うしていくのだが、70年代のフィラデルフィアではそういった人生が悲惨だったとしても福利厚生に各種保障のバッチリ整った豊かな現代社会では何の不足もない。ネットの普及は娯楽の幅も大きく広げている。朝起きて推しのツイートをいいね・RTしたら通勤電車ではスマホにイヤホンを差して昨日の配信のアーカイブを消化、勤務中も上司が居なければPCでネットサーフィン、ついでに推し活仲間もTwitterで探して週末の3Dライブ鑑賞のプランを一緒に組み、帰りの電車では推しに内緒で別の子の配信をこっそり覗き見…幸せ過ぎる、何の不足もない日常生活だ。

「戦わない=負け犬の人生」という定義は現代社会において通用しない。戦わなくても豊かな人生があり、素質があるなら何かに挑戦してみてもいいけど合わないならくじ引き感覚で分野を変えればいいし、何をやってもダメならまた元の人生に戻れば何の問題もない。何かの素質があるなら頑張ってみるのもいいけど十分に勉強して確かな知識を元に、決して無理をしないように。根性論とかそういうのいい加減古いし、ね(笑)といった具合に、理不尽な状況を前に根性と闘争心で立ち向かっていく概念は現代において極めて希薄だ。戦う必要がそもそもなく、戦いたければ自分のやりたいように、自由な戦い方を選べる時代。戦う男の物語が引き継がれなかったのは、あるいはそれ自体が時代の移り変わりの投影なのかも知れない。


ロッキーの魂は生きている

✔ ロッキーの後継シリーズ「クリード」の三作目、「クリード 過去の逆襲」はこれまでのシリーズ作品と比べると圧倒的に質の劣る駄作の部類だ。三つの試合シーンの内最初の二つはそれなりに見応えがあるのでお好きな人だけ劇場でどうぞ、といったところ。

今回のマイケル・B・ジョーダンの失態は「ロッキー」という珠玉のレジェンド映画シリーズに泥を塗るものだし、次世代へのたすきを託してくれたスタローンに仇なす行為だし、作品を通して人生の教訓を授けてくれる映画という文化への冒涜でもある。見た目良し、演技も良しで私は彼の事を買っていたがその実態は頭パッパラパーの只のガキだったようだ。華のあるいい役者ではあっても良き映画人には、彼は一生かかってもなれないだろう。

そもそもヒロアカを好きな作品に挙げているのは、まあよく知っていらっしゃるという感じだが好きなキャラを訊かれて「ショート」と答えている時点で薄っぺらい感性をしている事がバレバレだ。好きな漫画のタイトルにワンピースや鬼滅を挙げる奴はそれ以外のタイトルを知らない漫画にわか、ナルトを挙げればゆとり確定、ブリーチだとオサレな絵と固有名詞だけで気持ち良くなれちゃうバカ、テニプリを挙げれば込み入った腐女子、ヒロアカの轟焦凍が好きは奴は精神年齢が低くてセンスぺらっぺら、これは漫画界の常識だ。見る目のある漫画ファンは好きなタイトルを尋ねられると必ず「ハンター×ハンター」を挙げるものだが最近は「ハンター好きって言えば玄人ぶれるらしい」と嗅ぎつけたにわか共がこぞってその名を口にするようになってきていて一向に信用出来ない。結局は私のように「一つに絞るってなるとちょっと難しいっすね…」と顎を撫でるやり方が一番賢い。

スタローンが人生をかけて紡ぎ続けた「戦う男の物語」は、次世代に継がれなかった。それはⅤでロッキーを裏切ったトミーの如く、質の悪い若者に間違って未来を託してしまったせいかも知れないし、変わりゆく時代による淘汰のせいなのかも知れない。

ロッキーの物語はここで終わりだが、スタローンの戦いはこれからも続く。御年77歳になる彼は今猶アクション映画への出演を欠かしておらず、今年は「エクスペンダブルズ4」の公開を後に控えている。ロッキーの魂は今後製作が確実視されている「クリード4」やそのスピンオフ作品ではなくスタローン自身に今も宿っている。ここから先の彼の人生こそがロッキーシリーズの後継作だ。


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