子供はね、どんなにずっこけた人であってもお母さんが大好きです。──────坂本フジヱ(九十四歳の助産師)


✔ 2024年一杯「はいよろこんで」で世間を賑わせたこっちのけんと。国民的俳優菅田将暉を兄に持ち弟も俳優兼モデルという芸能3兄弟の次男。
先日テレビバラエティに出演した際に紹介された実母の「息子さん(=こっちのけんと)の良い所を挙げて下さいと学校で言われた時に一つも思い浮かばなくて情けない思いをした」という発言が物議を醸した。要は実の息子に対して「いい所が一個もない」と断じてしまえるのは毒親なんじゃないか、という話だ。
兄はいいとしてまずは弟(三男)を検索してもらい三兄弟のご尊顔を比べてもらえば分かる通りその容姿はこっちのけんとが一番悪い。子供時代はどうだったか知らないが御覧の通りのデブである上髪色にしても髪型にしてもメガネにしても何かと変で気持ちが悪いので子供時代も三兄弟の中で一人だけそうだったこっちのけんとに母が愛着を持てず辛く当たり続けたんじゃないのか、というのが実母の「いい所が一個もない」発言を聞いて世間が想像した絵面だ。まぁ燃やした人達も過去に似た境遇を生き抜き辛い思いをしてきたような人達なんだろう。
まず子供時代のこっちのけんとに「いい所」が実際に一個も無かったのかそれともちょっとぐらいはあったのかという話の前に大前提として言えるのが、人は誰かに愛着を持っている場合その人について「いい所が一個も思い浮かばなくて情けない」という言い表し方はしない、ということだ。女性がどう見てもブスな自分の友達を「カワイイ」と他者に紹介したり眼鏡にデブで何の能力も持たないどうしようもない男を「良い人」「優しい」と表現したりするのが正にそれだが、もし本当に「いい所が一個も無くて」「情けない」我が子を持っている親がそれでもその子に愛情を持っていた場合その子について表現する言い回しは大抵「癒し系」だとかオーソドックスに「優しい」もしくは「おっとりしてる」、あるいは「鈍臭くて何も出来ないところが親としては可愛くて仕方がなくて」「(兄弟の)他の子より多めに構ってしまう」、みたいな感じになる。
この件について重要なのは、こっちのけんとの母が我が子について「いい所が一個も無い」と断じてしまったことではなくその発言によって当時我が子のことを(それも三兄弟の中で一人だけ)嫌っていたことが露呈してしまっていることだ。番組では他にも「上の子と下の子は外に出て活発に遊んでいるのに真ん中(=こっちのけんと)だけは部屋に籠ってゲームばかりしているような感じで」といった発言も出ていて、この母親が「外に出て活発に遊び回るような子」を良しとしていて「部屋に籠るタイプ」だったこっちのけんとを悪性の子供だと決めてかかり、否定的に捉えていた側面も確認出来る。要するに、兄弟の中で一人だけ毛色が違い恐らく暗くて少々キモいタイプでもあったこっちのけんとをこの母親は否定的に捉えて危惧半分嫌悪半分の態度を子育ての過程で示し続けた形だろう。
「子供を嫌う」は現代の発達教育学の定義に当てはめて黒も黒なら真っ黒の虐待だし、それに「きょうだいの中で一人だけ」という枕詞が乗るとなお悪い。発達教育学の定義に当てはめれば親が子に対して否定的な態度をとっていいのは「悪いことをした時」だけだと決まっていて、「三兄弟の中で一人だけ毛色が違い」「自室に籠り勝ちで」「ゲームばかりしていて」「多分ちょっと暗くてキモいタイプだった」こっちのけんとはその全てにおいて「悪いこと」を一回も行っていない。─────行ったのは「母の好みに合わないこと」「意にそぐわないこと」で、それを理由に親が子に否定的な態度をとるのは発達教育学の定義において明確な虐待とされていて、一定期間行った場合虐めや差別同様当人の人格形成に多大な負の影響を及ぼす。
「きょうだいの中で一人だけ差別的に扱う」も同様で、長期間子供に行った場合その子は常々自分を殺し自分の人生を生きられない人間に育ってしまう。こっちのけんとは大学にしても就職にしても自分の努力のみでかなりの結果を残していて、大学時代にはアカペラの全国大会で複数回優勝し2024年には「はいよろこんで」で日本を沸かし、紅白への出場も果たしている。(菅田将暉を何とも思わない)私なんかからすると彼は物凄い実力者で兄や弟なんかより余程価値のある人間なのだがそれでも彼はずっと「兄には敵わない」「兄は10代の頃からもっとやっていて」「兄の弟だと言われるのが昔から辛くて」とこぼし続ける。
その理由はこの母親がこっちのけんとを幼少期より「お兄ちゃんみたいになりなさい」「それが無理ならせめて弟みたいになりなさい」「お兄ちゃんは素晴らしくてあんたはダメだ」「お兄ちゃんみたいじゃないあんたは我が家のお荷物だ」と洗脳し続けたからだ。その洗脳が思春期頃に完了して以降こっちのけんとの人生における課題は「自分の才能を活かしてやりたいことを精一杯やる」とか「楽しく生きる」とか「自分なりの目標に向かっていく」ではなく「兄(が無理なら弟)みたいになる」になっている。だから彼は自力で様々な功績を残し紅白に出場してもなお満足せずに寧ろ憔悴し、「兄が」「兄みたいに」と自分ではなく「兄」を主語にして話し続ける。
こっちのけんとにとって実母は「一人の他人」で兄も同じだが『自分をそもそも毛嫌いするような他人の意に沿うように生きること』と『そもそもタイプが違う他人のようになること』は誰にだって出来ない。にも関らずこっちのけんとは実母が少なくとも幼少期~思春期が終わる頃までは続けたであろう「嫌う」「それも兄弟の中で一人だけ」という二つの虐待により『その二つを達成しない自分には生きる価値がない』という尺度の上にのみ立って生きるようになってしまった。─────発育過程に成されてしまっただけに、この洗脳は絶対に解けない。もうすぐ30歳になる彼が思春期以降やった事や考えた事、選んだ趣味に行った場所、付き合った友人・恋人、読んだ本、見た映画、努力すると決めた事、手に入れたけど手放したもの、人生の各所で下した決断、その全てにおいて経験した事、それら全てから受け取った忘れられない感情、思い…………その全てが『母の意に沿い兄のようにならない自分には生きる価値がない』という観念の上に成り立っている。『母の意に沿い兄のようにならない自分には生きる価値がない』という”根”を出発点として枝葉を伸ばしてきたのが彼という存在で、だからその洗脳だけは絶対に解けない。仮に解けたとしたなら彼という人間の存在自体が消え失せてしまう。
未曾有のバズり曲を生み出し国中を席捲し、(若めの)国民総スタンディングオベーションの中紅白に出場してもなお「兄が……」「兄みたいじゃないから……」と自分を責め続ける人間は何を達成してももちろん幸せになどなれないし、寧ろ時を追うごとに、その過程で行動を起こすごとに憔悴していく。体力も精神力もフルで投下して大きな功績を残しても四六時中自分を責める声が頭の中から聞こえ続けるのだから心身共に異常を来すケースも当然ある。
で、やはりと言うか何と言うかこっちのけんとは以前から慢性的な【躁うつ病】に悩まされ度々【希死念慮(=死にたいと思うこと、死について思いふけること)】を抱くという大変な体質を抱えている。努力の果てに掴み取った一流企業の正社員の立場は【躁うつ病】で失い2024年の紅白出場直後にはSNSで「今でも何で生きてなきゃなんないんだろうという思いが湧いては消えを繰り返す」というヤバ過ぎる投稿をしてしまう彼は重度の病人で、予断を許さない「自殺者予備軍」だ。
こっちのけんとが抱えている【躁うつ病】と【希死念慮】というのはACが発症する中でも極めて典型的な症状で、またその度合いが重度な者にのみ発症するもの、なお且つ発症者の社会生活を直接的に刈り取りに来るという深刻な特徴を兼ね備えている。実際こっちのけんとはそれにより社会的立場を失ったり大衆ドン引きの投稿をして自身のネガティブキャンペーンを行ったりしてしまったわけで、やはりこの二つを発症しているか否かでACの重篤度というのは大きく分け隔てられる。
一方こっちのけんとの実母は見ての通りテレビが来るからといって金髪に染めて若作りを決め込んだり「芸能三兄弟の育て親」ということでセミナーを開いたりしているわけだがそれを見るにこっちのけんとをこんな重篤な状態に追い込んでしまったことに関して全く反省の念がないようだし、その原因が自分だということにも恐らく全く思い至れていない。
「親」は別の言葉で言うと「保護者」だが、「保護者」の役割は書いて字のごとく『保護すること』だ。「導くこと」でも「矯正すること」でも「価値を判断すること」でもなく、ただ『保護すること』、それだけが「親」がやるべきことで「子供」が必要としていることで、また「親」に許されたたった一つの権利だ。
「三兄弟の中で一人だけいい所が一つもない」とかそういう判断は、『生んだからには子供は自分の所有物だ』という意識が根底にないと出てこない。三兄弟を自分の好き好みの尺度で計って差別的に接したこと、その全員を芸能人にしたこと、見返りとして(若作りをした上で)テレビに出たこと、セミナーを開いて金銭を儲けたこと……………この母親の行動原理は常に『(産んだからにはその所有権の一端が当然自分にもある)子供達を使ってどう自分が利を得るか』という発想に根差している。
この母親が三兄弟を育てる過程で「保護者」の本分を全う出来ていなかった事実を示唆するものがもう一つあり、それはこのページの最上部に挙げた二つの画像のうち上のものでこっちのけんとが言っている「(子供時代)自分にとって母は敵(だった)」という言葉だ。──────「保護者」だけに「保護」する立場である筈なのに「敵」………………「保護」と「敵対」は全く逆を意味する言葉で、真っ当な「保護」が成り立っていた場合子供からこの言葉は絶対に引き出されない。こんな言葉を子供に言わせてしまった時点でその親の子育てはあらゆるケースにおいて100%間違っている。
こっちのけんとのAC(としての深刻)度は前頁の天音に比べ遥かに重度だ。
親から受けた仕打ちは天音と同じ【厳し過ぎる律し】に加え【存在価値の否定】【家族の他の誰かと比べ差別的に扱う】ことでそれにより表れた症状は分かっているだけで【躁うつ病】と【希死念慮】──────これは天音の【過剰な利他心】とか【人間関係の不備】等と比べると圧倒的に重い。天音の場合は結果「ちょっと生きにくい」「人付き合いで損をすることが多い」程度だがこっちのけんとの場合は「社会的地位やそれまでに築いた人間関係そのものを自分の意志と関係なく丸ごと喪失」したり「自死により命を落とす可能性が常に付き纏う」のだから。
天音よりACとしての重篤度が高いこっちのけんとだが、両者の親を比べるとその「毒親度」もこっちのけんとの方が高い。天音の母親の場合は天音の話を聞く限り「とにかく厳しかった」に尽きる反面、こっちのけんとの母親は子供時代こっちのけんとのことを明確に「嫌悪していて」「存在価値を認めていなかった」。天音の母親の場合は厳しいだけで愛情だけは持っていた可能性が残るがこっちのけんとの場合それはない。「子に対して愛情を持たない」は「厳しい」よりもちろん「毒親度」の高い行為だが、つまり親の「毒親度」に呼応して子の「AC度」が増加する比例関係の存在が窺い知れる。
ところで、
(引きの映像を確認すれば分かるように)でっぷりと太り腹の突き出た彼の体形と変な服装に変な髪色、変な眼鏡………………誰しも気になっていたのではないだろうか。まだ20代後半と若くテレビ映りは気になる年頃の筈だがどう「奇抜」「個性派」と言い訳しても彼の出で立ちは完全に変だ。

✔ 三兄弟を並べてみると、やはり一人だけおかしい。職業柄もあるのだが他二人に比べてそもそも「キメ」にいくこと自体を投げているというか、どこでもこの笑顔でやり通すことに決めていそうというか、その笑顔自体もどこか自棄ばちのように見えるというか……………