映画批評【アバター】86点 《ハリウッドの現環境に蔓延する「ポリコレ」の魁。同ジャンルの原点にして至高の作品》

映画


【①.昨今ハリウッドに蔓延し、賛否両論である「ポリコレ」の魁】

【➁.ポリコレ要素の入れ込み方が自然でさり気無く、観客を取り込み感化させる力が異常。最近のポリコレ映画と大違い】

【③.13年前の作品というのが信じられないCG技術。3Dまで上乗せした際の臨場感は想像に難くない】

【④.「何を伝えたくて」「その為には何を描いて」「どんな道筋で観客に伝えていくか」という監督のクリアなビジョンに基づいて丁寧に形作られた映画作りのお手本のような作品。視聴する上で湧くあらゆる感情が監督の思惑通りだがその術中にハマる感覚すら気持ちがいい】


【①.人間の倍はあろうかという長身で魚のように青光りする肌を持ち、馬面な顔に猫科の動物に似た目、鼻、口のパーツが並ぶビジュアルは初見では誰が見ても気持ちが悪く、とりわけ日本人からすれば軽い恐怖を覚える程だろう。ここを超えて映画本編を視聴し始めれば後は監督の術中にハマるのみだが一般の観客にとってこのハードルは恐らく高い】

【➁.「環境破壊」という今では見なくなったテーマが含まれる。90年代の名残でもあり監督の関心のあるジャンルでもあるが今の時代に見ても誰もピンと来ない】

【③.ストーリー自体は概ね一本道で単純。監督の「仕掛け」の数々が無ければ余りにシンプルな映画】



Ⅰ:概要

✔ 「アバター(2009)」はターミネーターシリーズや「エイリアン2(1986)」、「タイタニック(1997)」等で有名なジェームズ・キャメロンによるファンタジー・SF・アクション映画。公開当時としては珍しい3Dの形で上映され、興行収入歴代1位に輝き今もその座を守っている大ヒット作。

「ターミネーター4(2009)」、「崖っぷちの男(2012)」等で有名なサム・ワーシントンが主演を務め、「エイリアン2」で主役を演じたシガニー・ウィーバー、「強いジジィ」をやらせたら右に出る者はいないスティーヴン・ラング、小物で小男・性格まで捻くれていてクズ野郎だが何故か出演作中での死亡率が低く、代わりに色気を出していい者の役をやると死亡率が跳ね上がる男ジョヴァンニ・リビシが脇を固める。ヒロインは歴代興行収入ランキングトップ5の作品の内3つに出演していながらその素顔は誰も知らない美人女優ゾーイ・サルダナが務める。


※※※ 以下「アバター」「エターナルズ(2021)」のネタバレを含みます ※※※※

Ⅱ:落として上げる、計算され尽くした感化までの過程

✔ 今でこそ主に大人達の間で広く認知され日本人にも受け入れられている「アバター」だが公開当時、初見時のアバターのビジュアルというのは本当に違和感と拒否感が酷く、私個人も劇場での鑑賞、そしてDVDでの鑑賞までもをスルーして地上波で視聴する際になっても「見た目と異様な雰囲気にだけは耐えるからコイツら・・・・同士のラブシーンは、どうかラブシーンだけはAまでに留めてくれ…」と天に祈りを捧げていた事をよく覚えている。この映画、そしてジェームズ・キャメロンの恐ろしい所はそんな観客の拒否感と嫌悪感を作中登場する青いエイリアン「ナヴィ」のビジュアルによって意図的に起こさせ、それを起点として利用する事で映画の完成度を大きく上げている事だ。

この映画の舞台である惑星「パンドラ」に暮らす「ナヴィ」という種族に似せて作られた人工の「アバター」に従軍時の負傷による後遺症で下半身が付随となっている元海兵隊の主人公ジェイクが意識を接続させ、現地調査と交渉役を兼ねてナヴィの部族に溶け込み触れ合う形で物語は進行していく。映画序盤で本作のヒロインでナヴィのネイティリとジェイクが邂逅した辺りではナヴィはやはり「青いエイリアン」でしかなく、ネイティリの細長くモデルのような体つきと小顔で大きな目、つまり「美人ヒロイン」としての造形すらもが忌まわしい。女性は取り分け年上が好きな私は当時の、最も脂が乗っていて美しかった頃のシガニー・ウィーバーに惹かれていて、なんとかそっちルートないですかね、とぶつぶつ言いながら観ていたのを昨日の事のように覚えている。

部族への一応の参加を認められたジェイクがネイティリを専属のコーチとしてナヴィの文化を学んでいく過程の中、そのシーンの数々を経てナヴィはともかくネイティリを好きにならない者などいないだろう。空から侵略して来た「スカイピープル」の一人であるジェイクに対して当然の警戒心と厳しさを保ちつつも世話好きで優しい素の性格、そして大らかで明るい振る舞いを度々見せるネイティリは最早「青くて不気味なエイリアン」ではなく違う環境、違う文化の中で育った我々と同じ普通の人間だ。視聴前ナヴィ同士のラブシーンを強く懸念していた私もネイティリの「中身がまとも」だと理解した後はキャプつばにも勝てそうな彼女のモデル体型とそれに反する自由でアグレッシブな振る舞いのギャップ、大きな目で優しく笑う笑顔にグラつき「よく見れば露出すごくね…?」「乳首と股以外隠れてないけど…」と気が付けばネイティリを女性としてどころか「そういう対象」として意識するようになっていた事がありありと思い出される。

本作を日本語吹き替え版で視聴するとネイティリは飾り気のない発声で片言を話しており、これは「見た目はモデルのようにスラリとしていて顔もいいのに喋りが上手くなく、性格も出で立ちも飾り気が無く純朴だがそのギャップがたまらない」という、言ってみれば我々の世界で人気の「美人トップアスリート」に類する魅力を放っていて、これで感化されない男性はいまい。私ももちろんこのジャンルは物凄く好きだ。

本作には私が視聴前懸念していた通りジェイクとネイティリ、つまりナヴィ同士のしっかりとしたラブシーンがあるがこの映画はそこに至るまでに観客がネイティリ、そしてナヴィに対して抱いた違和感や嫌悪感を綺麗に払拭するように作られていて、当該のシーンでは拒否感はおろか情欲すら覚えず、二人が種族や立場の壁を超えて結ばれた感動が湧き上がる。親しげにしながらも内心どう思っているのか分からなかったネイティリがジェイクの告白に応えるシーンは物凄くよく出来た胸熱恋愛シークエンスで、この20年の間に作られた恋愛映画のヒット作にも負けない出来だ。


Ⅲ:悲痛な叫び、最早我が物。これぞ真のポリコレ描写

✔ ジェイクとネイティリが結ばれ仲良くやっている間にスカイピープルの強行派、つまり軍事侵攻担当の「大佐」と惑星パンドラにおける開発の責任者が本格的な武力行使を始める。ナヴィの部族が住処としている場所とその中心にある、彼らが儀式に用い精神的な支柱にしていた大木「魂の木」を焼き払われて彼らが上げる悲痛な叫びは、ネイティリに感化されナヴィに親しみを感じるようになっていた視聴者にとってはあまりに辛い。彼らは序盤と変わらず青い肌で馬面、泣き声や悲鳴だって変に野太くて悲しんでいる顔は威嚇している時の猫みたいだが、ここまでに彼らの生活に溶け込み内面を知り文化に触れる追体験を視聴者はしているし、何よりネイティリが属している、彼女を育んだ人々やその住処がこんな形で蹂躙されるのはとてもまともに見ていられない。そして同時にコーヒー片手にヘリからミサイルを撃ち込む指示を出して「ゴキブリ共が」とほくそ笑んでいる「大佐」に対する多大な憎悪が湧き上がる。

「大佐」は昨今ハリウッド映画でよく描かれる「権威的で思い上がった白人男性」の走りだ。壮年だが魅力的なルックス、たくましい肉体で自身に満ち溢れ強硬的で強行的、利発で実行力にも優れるが人格と思想の根本的な部分が間違っていて非常に厄介な存在…ある時点から自分達の国への猜疑心が止まらなくなったアメリカ国民の心が生み出した「これまでの間違ったアメリカ」の象徴が大佐のような「権威的な白人男性」というキャラクター群だ。こういったキャラが登場する映画は必ずそのキャラを主人公(大抵有色人種か女性)が倒す(これまでの「間違ったアメリカ」を払拭して変わりたいという思いの表れ)事で大団円を迎える。

「アバター」も正にそういった流れを辿って終わる。よく考えてみれば大佐を殺したのはジェイク(主人公・白人男性)ではなくネイティリ(有色人種の女性、その象徴)だ。イラク戦争の失敗、そして長く苦しい不景気の始まりを皮切りに国民が能天気なアメリカ万歳をやっていられなくなった過渡期に製作された「アバター」は「俺らの国は信用出来ない、上にのさばってる白人のおっさん達は何やってたんだ、こいつらを消して新しい国にしたい」という彼らの思想が反映された最も初期の作品なのだ。13年経った今でも同じ世相が反映された映画がハリウッドでは延々量産されているが、アバターが昨今の「この類」の映画と違うのは「権威的な白人男性」のみならず「人種差別問題」及び「有色人種の美化」のような「ポリコレ描写」が極めてさりげなく且つ丁寧で、それが観客を最大限に感化する事に成功している、という事だ。

例えば「強い女性」の魅力を存分に描く「ハーレイ・クインの華麗なる覚醒(2020)」は主人公ハーレイが銃器や防弾装備で武装したならず物の男性達をバットや徒手空拳で何十人もなぎ倒していくが、これは「丁寧なポリコレ描写」とは言えない。ハーレイ・クインは精神面が物凄くぶっ飛んだ危険な女性ではあるものの身体能力はジョーカーと同じく「普通」なのだ。ジョーカーはおろかバットマンですらフル装備で挑んでも多分無傷では済まないなという敵集団を相手にポップな私服姿のハーレイが棒切れ片手に無双するのは全く説得力のある画にはならないので観客は没入感を得られず、「女性の美化」というポリコレテーマを伝えるというこの映画本来の目的が全く果たされない。

マーベル映画「エターナルズ」は10名のヒーローから成るヒーローチームを軸として物語が進行していくが、このチームにはあまりに多くの「ポリコレ」が雑に放り込まれていて全編違和感が尽きない。

このチームのリーダーはアメリカではとかく煙たがられ勝ちな「ラテン系(この映画の場合はメキシコ人)」のそれも女性で、その座を継ぐのは東アジア系のこれまた女性、つまり実力とカリスマ性を併せ持った白人男性も在籍する、大変な使命を帯びた大型のチームのリーダーが有色人種の女性から有色人種の女性に渡るというハットトリックの上にコールド勝ちを重ねるようなあり得ない確率の変遷が起こっていて、「あぁやってんな」とその時点で没入感が削がれてしまう。

加えて「実力と見栄え、カリスマ性を備えた白人男性の闇落ち」、「どう見ても女が好きだろお前は、な男性が男性と結婚して熱烈キッス、そのどちら共が有色人種」、「ヒロシマへの原爆投下(過去のアメリカの誤った行い)に嫌気が差してヒーローチーム(「ヒーロー(チーム)」はアメリカという国自体の象徴)を抜けたヒーローがいる」「耳の不自由なヒーローがチーム内最強クラスの戦闘力を保有」「黒人で女性でもある彼女はチーム内の白人男性と恋愛関係(異人種カップル1つめ)」「韓国系のヒーローとブロンドの白人女性との異人種カップル(2つめ)」「リーダーの座を継いだアジア系女性はチーム外の白人男性と交際中(3つめ)」「絶対的な力を持った自分達の創造主に話が違う、私達を騙したのね!と反旗を翻す新しく生まれ変わった・・・・・・・・・・有色人種の女性をリーダーとしたヒーローチーム」「ついでにこの映画の監督も有色人種の女性」…といった具合で少数派だからこそ不当な扱いを受け勝ちだった層の人々がこの作品では逆転して大部分を占めていて、極めて不自然で雑なポリコレ描写と言わざるを得ない。

「ハーレイ・クイン」も「エターナルズ」も実は映画の実の部分はよく出来ていてどちらも質のいい映画ではあるのだが、度重なるポリコレの挿入で観客の違和感を煽り没入感を削いでいる事は間違いない。最近よく聞かれる「ポリコレもういいよ」の意見はこういった傾向に嫌気が差した映画ファンの至極真っ当な意見だ。

対して「アバター」のポリコレ描写は非常に丁寧な上に入念で、その仕掛けは観客が作品を視聴する前、つまり私自身を例に挙げれば上映前のトレーラーやCMでナヴィのビジュアルを見て拒否感を抱いたその時になる。他の生物と比べると共通項は多いもののやはり自分(達)とはかけ離れた肌の色や体形・体格、顔のパーツやその配置で所謂「不気味の谷」現象を起こし違和感を覚えさせ、映画本編の序盤では「野蛮」「妄信的」「話が通じない」等と悪いイメージを吹き込み実際に邂逅してからはその魅力を存分に見せつけ感化し引き込み、最終局面が始まるまでに完全に「あちら側」に目線を切り替えさせてしまう…私が初めて「アバター」を視聴した時に辿った気持ちや感覚の変遷は正にこれに沿った形で、物語中盤でナヴィの本拠地が焼き払われた時に彼らの悲痛を我が物のように感じ、敵側(視聴開始時は味方だった側)をこんなにも憎んでしまうのもやはり監督の思惑通りに感情をコントロールされているという事だ。何と気持ちのいい、これこそ本物の映画体験だ。

昨今疎まれがちな「ポリコレ」映画もよく計算して丁寧に製作すればこの境地を目指せる筈なのに、そんな作品が一つもない所を見るとハリウッドの映画人達は誰もこの「ポリコレ」に属すテーマを本気で我々に伝える気がないように思える。手を出しておきながら本気で作らない・本気で伝えない、これこそ最も「ポリコレ」に属する各項目を軽んじ害す行いではないだろうか。


Ⅳ:人種差別はあなたの中にも

✔ パッと見で大体の大人には分かる事なのではないかと思うが、惑星「パンドラ」に住まう「ナヴィ」という種族はかつてアメリカ人が虐げ追いやった「ネイティブ・アメリカン」古い言い方だと「インディアン」の暗喩だ。細くすらりとしているが骨太な体形に編み込んだり剃り上げたりな髪型、戦いには馬を駆って弓を用い、特徴的な雄たけびを上げ「超自然」を崇拝し「自然」に敬意を払う…ネイティリを演じている女優は黒人でその声質や発声のし方でややこしい事になっているがこの「アバター」という映画自体「時代が進んで舞台を宇宙に移しても結局あの頃・・・と同じ事しか繰り返せない愚かな白人種」という気の利いた自虐的セルフパロディーを基として作られている。

「ナヴィ≒ネイティブ・アメリカン」の図式が示すのは「アバターの本編を視聴する前に大多数の観客が抱いたナヴィへの違和感は人種差別の始まり」という事だ。私などいい例で、「基本的な構造は同じだけど色々違い過ぎて不気味」「こいつら・・・・をメインにした話なんて受け入れられる気がしない」「こいつら同士のラブシーンなんか考えたくもない」視聴前のこれらの印象の対象を全てナヴィから暗喩の元であるネイティブ・アメリカンに置き換えてみると心底青ざめる。かつてアメリカ大陸に我が物顔で侵攻しとても同じ人間にするとは思えない仕打ちをネイティブ・アメリカンに対して行った白人の入植者達や「アバター」で害虫でも駆除するかのようにナヴィの住処を焼き払う「大佐」の胸にある感情と私の映画視聴前のナヴィに対する感情は少しも違わない。「人種差別の素は誰の中にもある」監督はこの映画を通じて観客にそれを伝えようとしているのだ。

そしてジェイクが映画の中で辿った「実際に彼らの中に身を置き、学びの姿勢と敬意を持って触れ合う事で理解し合える、仲間になれる」という軌跡は差別的な感情の最も王道な解消法だ。「肌の色や顔のパーツ、体格や体形等の外的な要因、そして生まれてからこれまで身を置いてきた環境以外私達に違う所など一つも無い」という事を理屈ではなく感覚で感じ取る、シンプルだが直接的で非常に理に適った、むしろこれしかないんじゃないかという人種差別の解決策までもを映画にさり気無く盛り込ませ、3D上映と現在でも上出来の部類に入るCG技術の二段構えで臨場感を高めて観客に主人公ジェイクの追体験をさせたのは取り分け人種差別問題の根強いアメリカの国民にその解決への道筋を実際に体験させる為だろう。

物凄く意義深い試みだし、それを行っている事自体気取らせない程にさり気無く丁寧に映画を製作する姿勢と熱意には敬意しかないし、実際にイメージ通りの物を仕上げて結果まで出している事は痛快で仕方ない。これぞ本物の映画作り、今も量産され続けているポリコレ映画とはテーマが一緒でも根本的に別物だ。「映画のネタや脚本等はもうとっくの昔に尽きている」とはよく言われるが「正統派で熱意ある本物の映画作り」は本当に珍しく、多分映画のこの先は「ネタやバリエーション」ではなく「質と作り込み」の方面にあるのではないだろうか。


Ⅴ:でも多分無理

✔ 監督が細心の映画作りで「人種差別的感情の起こり」→「その解消」を実際に体験させてくれた所悪いのだが、私は現実の人種差別問題がこの方法で払拭される事はあり得ないと思う。

監督の示してくれたのは「実際に触れあう前の外見的な拒否感、噂やネガティブキャンペーンを基にした悪いイメージ」を「実際に触れあう事で解消していく」、つまり「実際に触れあって中身を知れば差別心は無くなる」という考えに基づいた物だがそれは裏を返せば「実際に触れあってみてもお互いの精神性がどうしても相容れない時、両者は今度こそ動かしようの無い拒否感によって隔たれる事になる」という可能性を示唆している。

上京して数年を東京で過ごした私は、東京都民という「種族」を心底憎み見下すようになってしまった。同じ見た目で同じ文化圏に属する人々、東京という我が国の中心に暮らす人々はさぞ文化的で理性的で、彼らが身を置くその環境は只の地方都市に過ぎない自分の地元とは比べ物にならない程「ちゃんとしてる」んだろうな、自分も上京するからには頑張って東京に合わせなきゃな、という今思えばアホ丸出しで青臭い、期待と向上心の入り混じった感情はテレビやネット等の各種メディアで提示されている物とは余りに違う「リアルな東京都民」の在り様にぶち壊される事になる。

短絡的、直情的、精神年齢は自分達の子供より低く、日本人の際たる特徴「人目線を基にして行動」「空気を読む」が全く出来ず、頭を使うのをサボり広い視野を持つ事から逃げ、一次感情を恥ずかしげもなく口に出しストレス発散の為に常にキレるタイミングを見計らっており差別心と劣等感の両方が価値観を支配し、仲間の悪口を違う仲間に出来るだけ汚い言い回しで言う事が一番の楽しみ、「ギャグ=うんこ、漏らす、吐く」だと思っている、「立小便」が「変わりかけの赤信号を渡る」ぐらいの些末な悪事に捉えられていてこのご時世に今だに横行、朝方の街は吐しゃ物と小便と小動物の死体で彩られる、それらをやり過ごしてやっとの思いで乗り込んだ電車は「咳払い」で緊急停止…東京は病気だ。日本を舞台にしたハリウッド映画で「日本はいいよ人は優しいし…」と白人俳優が東京を歩きながら言っているシーンを見ると「そんなドブと一緒にするんじゃねえ」と頬を張りたくなる程私は東京が嫌いだ。

見た目は同じで国も同じ、使用する言語も同じで文化圏も同じ、つまり「アバター」で言うところの「スカイピープル」と「ナヴィ」と何もかも真逆と言える程共通点の多い私(地方出身者)と東京都民だが、「感覚」や「常識の尺度」、「行動パターン」が少しズレているだけで私は彼らが気持ち悪くて仕方がないし、理解したくもなければ近寄りたくもない。東京都民と比べれば肌の色や母国語が違い、文化圏が違い過ぎて共通の話題にも苦労した、学校や職場等で出会った外国人達の方がずっと理解出来るし、魅力的だし関わる価値があると思える。

私はジェームズ・キャメロンの提示した「実際に相手側の環境に身を置き、敬意と学びの姿勢を持って相手の内面を知ろう」という差別意識や嫌悪感の解消方法を既に実践しているがこの有様だ。アメリカに根強く在り続ける人種差別の問題も、きっと「実際に触れあって一緒に過ごしてお互いを理解しよう」では解決しない内面的な齟齬が大いに絡んでいる。

ジェームズ・キャメロンの提示した「差別や嫌悪感の解消方法」には先があって、それはきっと「お互いの内面を理解した上でどうしても相手の事が受け入れられないなら潔く距離を取ろう。さもなければ血が流れるよ」という物だ。「アバター」の本編、その終盤を思い返してみればかつて同じ側に属していて人種も言葉も文化圏までもが同じだったジェイクと「大佐」+「開発責任者の男」は思想の違い、つまり「内面の違い」によって決定的に袂を分けている。理解し合えない事を分かった上で互いに引かなかったジェイクと大佐は殺し合いになり渋々地球に引き上げた開発責任者は難を逃れた結末を見ても「中身を理解しても尚相容れないなら即座に引く」という回避行動をどちらかが執らねば差別意識や嫌悪感の結末は多くの場合悲惨な物になるし、私は現実世界ではキャメロン監督の示した解決策よりこちらの方を推し進めた方がいいのではないかと思う。

私は東京で暮らしそこに住む人々の本質的な部分を知れば知る程「絶対誰かぶっ殺してから地元帰るからな」という黒い感情が止まらなかったが、実際にそれを実行に移してしまう育ちの悪い方々が東京には度々現れるではないか。私は先日遂に東京から脱出して地方に逃れたのであんな嫌な感情を抱く事はこの先ない筈だが、アメリカの人種問題もこれと同じ、彼らに実際に必要になるのは多くの場合「理解」ではなく「回避」、相容れない相手から潔く距離を取る事なのだ。

地方で東京都民を見る事が少ない様に、日本で出会う外国人の中にアメリカ人はとても少ない。東京は日本の、アメリカは世界の中心で、そこで生まれ育った人々は「その他の地域」を自分の所以下だと信じて疑わない、と言うかメディアの報じ方はどう考えても「中央こそ至高」といった形で、特に「自分の土地から出た事のない日本人」にとって東京は「局所におかしな所はあっても県としての完成度は日本No.1」という認識になって当然だ。「自分の土地から出た事の無い日本人」には当然東京都民も当てはまり、「東京都民を地方で見かけない理由」も彼らが自分達の住んでいる場所こそ至高と信じ込んでいるからに他ならない。ちなみにこの場合の「至高」は「いい所」という意味ではなく「変な人間ばかりで気持ち悪いしストレスも溜まってるけど他の県はそれ以下なんだよね、メディアの報じ方的に」という「一番マシ」という意味の「至高」だ。東京都民は別に脳機能が低い訳ではないので周りに「まとも」からかけ離れた人間しかいない事にちゃんと気が付いているし、それに対してストレスもちゃんと感じている。

「東京は民度が47都道府県中最低で住む人全員が大なり小なり病的な特徴を保有する毒された土地。後から来た人は当然それに気付き嫌悪感を持つが対抗しているうちに同化してしまう」という本当の姿をありのままに拡散すれば無用な人入りが減り「東京こそ至高」の思い込みから解かれた東京都民は県外に移住し、人が減ってストレスの減った東京の中ではこれまでのようなおかしな出来事も鳴りを潜める筈だが、アメリカもこれと同じ、病的な差別問題を解決したければ国外に人を出す努力をすればいいのだ。この前のハゲの大統領のような「アメリカは最高で最強の国、でも外国人は入って来んな」という言い草では人入りが止まる筈がない。「アメリカは人が増え過ぎて環境が悪化して気色の悪い人種差別問題がしつこく居座りそれを適当に反映したアホみたいな映画が跋扈するような滑稽な有様になってしまいました。まともな人間なら一生関わる事の無い「訴訟」なんて物の大国なんて言われるようにもなっていて、この国に住んでる人全員大なり小なり病気です!出来る限り皆他のまともな国に移り住んで新しく入って来ようなんてバカな真似は慎んでくださいお願いします!」と現実をありのままに伝える勇気を国の代表者が持たねばこの国の人種差別問題は永遠に寛解すらしないままだろう。


Ⅵ:まとめ「あなたが見え」なかったその時は

✔ 先日、続編「アバター:ウェイ・オブ・ウォーター」が公開されたシリーズの初作「アバター」は現在大いにはびこるポリコレ映画の魁的作品だ。主人公は負傷し後遺症を負った元従軍兵士、主人公に味方する「いい者」陣には有色人種の象徴であるナヴィ達、科学者の「女性」、「有色人種の」科学者、「有色人種で女性」の兵士…これ以降の映画で「推される」属性の人々ばかりが揃っていて悪役サイドは図ったように白人男性ばかり。「戦争によって傷ついた兵士」がトレンドだった当時のハリウッドでアバターは同じように元従軍兵が主人公だがより戦争の悲惨さにフォーカスした「ハート・ロッカー」にアカデミー賞を奪われているが、仮に今の環境で競っていたならアバターに軍配が上がっていた事だろう。

本作の視聴の際はそういった時代背景にも留意しつつ監督の明確なビジョンと強い意志に基く至高の映画作りがもたらす「自分の中の人種差別的発想の起こり」を感じ、それを解決するまでの過程を堪能しよう。画面の中で起こる出来事に対して素直に湧く感情、その一つ一つが得難い「実体験」だ。

作中でナヴィが「こんにちは」「よろしく」「I love you」等の意味で多岐にわたって使用する「あなたが見える」という言葉は非常に示唆的だ。「あなたが見える」と言えるまで近づいて相手を知る事にこそ意味がある、それをするまでは何も始まらない、でも現実問題近づいて知ろうとしても「あなたが見え」なかったその時は…?

現実離れした世界を舞台に展開されているのに現実世界と強く結びついているのは「いい映画あるある」だ。「ポリコレの原点にして至高」良いんだか悪いんだか分からないそんな称号が申し訳無くなるぐらい、この映画は本当にいい。


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