【①.アップやスローモーションを多用して選手の状況・思惑を知らせる演出(これが恐らく監督言うところの「日本の(ボクシング)アニメ的演出」)を多用した試合シーンは悪くない。ただし最終戦を除いて】
【➁.トレーニング→試合のお決まりのパートは画に華と迫力があり、テンポも良くて悪くない。これに関しては過去作に近い水準を満たせている】
【①.トレーニング・試合シーンを除く全てのシーンが全部駄目。貧しい発想力・間が悪い・フリが成立していない・情緒不安定な登場人物達・無理矢理な展開・素人考えの余計な演出、等】
【➁.年老いた負け犬(的キャラクター)をより若い勝ち組が打ち負かすという意気消沈ストーリー】
【③.ロッキーが退場した事で所詮ロッキー頼りだった事実が浮き彫りに】
【④.「ロッキーの魂」を本当に全く、これっぽっちも受け継いでいない】
✔ 「クリード 過去の逆襲」は2023年のスポーツ映画。マイケル・B・ジョーダン、テッサ・トンプソンをはじめとしたお馴染みのキャスト達が続投しているがシルヴェスター・スタローン(ロッキー)は不参加。今回監督も兼任しているマイケル・B・ジョーダンは「日本のアニメが好きで、それをイメージした演出を映画に取り込んでみた」と語る。
今回ライバルボクサーを演じるのは「アントマン&ワスプ:クアントマニア(2023)」でメインヴィラン征服者カーンを演じていたジョナサン・メジャースという絶賛上げ調子の俳優だが、作中でクリードより年配の役を演じている彼はまだ30代前半の若者で、クリード演じるマイケル・B・ジョーダンより実年齢は若い。作中での彼はどう見ても人生に失敗した四十絡みだったが、老け顔もここまでくると才能と言えるのかも知れない。
「アントマン&ワスプ:クアントマニア(2023)」の批評記事で私は「カーンが出て来てから映画自体の流れがおかしくなった」「カーンにはヴィランとしての華が無いし、格も低い」「カーンダサい」「カーン弱い」「戦う時変な掛け声出すのやめて欲しい」等、クアントマニアにおける彼のヴィランとしての不適格さを散々書き連ねたが、今回は18年のムショ務めの中行ったトレーニングが功を奏したのかバキバキの体でトリッキーなラフファイトを披露するヒールボクサーを立派に務めている。パッとはしないがどことなく悲壮感を感じさせる、味のある顔つきも若気の至りで人生を棒に振った中年男の役どころによく似合う。徒手空拳で戦う際に発する「アァイッ!(湯切りのアレにさも似たり」という掛け声はクアントマニアから引き続き健在で、正直それに関しては正気か、監督か誰か注意してやれよと思ってしまうがスコット(アントマンではなく)とかいうザコと互角に殴り合っていた事を思うと戦闘力の大幅アップに成功した事だけは確かなようだ。
✔ 作中でクリードが言う通り、観客は「負け犬のストーリー」が好きだ。他ならぬロッキーの第一作が30歳まで鳴かず飛ばずだった負け組ボクサーのサクセスストーリーだった訳だが、今回は「父親が元世界チャンピオン、20代の若さでボクサーとして成功したエリートサラブレッドな主人公」が「若気の至りで人生の半分を刑務所で過ごし、人生を棒に振った負け組おじさん(当然その間ボクシング経験なし)」を倒すという完全に逆の構図でお送りされていて、やはり全く盛り上がらない。
ライバルボクサーを演じるジョナサン・メジャースはクアントマニアの時と違いこのハマり役をそれなりにモノにし、それなりに上手く演じているのだがシリーズ全二作のライバルボクサーと比べるとやはり見劣りするというのが実際のところだ。
例えばシリーズ第一作の「クリード(2015)」で登場する、メインを含めた三人の相手ボクサーには全員本物のプロボクサーが起用されている。クリードがプロボクサーとして初白星をキメる相手(ロッキーの幼馴染であるピートの息子)はチャラくて強面のおニイちゃんぐらいのビジュアルだが「殴り慣れてるし、殴られ慣れてる」事が一目で分かる、岩みたいなビジュアルに一回も笑わない目がくっついたクリードと同郷のヘビー級ランキング上位のボクサー、ダニー・スタントマン・ウィーラーと彼を試合前の会見で殴り倒してしまうラスボス、プリティ・リッキー・コンランの醸し出すオーラは本当にヤバい。
ロッキーやクリードで描かれるような死ぬか殺すかの殴り合いを地で生きてきた彼らのオーラには役者などには到底出せない本物の殺気が混ざっていて、画面越しにでもこちらを真っ直ぐ見つめられるとションベンちびりそうになってしまう。クリードとの最終決戦で見るコンランの大きな体はプロボクサーのイメージとは裏腹に厚めの脂肪に覆われてプルプルと揺れているがそれが彼の物である時点でクリードのバキバキの体の何倍も恐い、演技が所々下手なのも無骨な無法者ならではの不器用さの表れのようで恐い、多分彼だったら週末ショッピングモールでアイス片手にカートを押して家族サービスをしていたとしてもその様子はどことなく恐いだろう。何というか目許が普通ではない。修羅場をくぐるうちに後先を考える機能を失い、目に映る物全てにただ照準を合わせているだけかのような、瞳孔開き気味の真っ黒な目。座り過ぎて表情が反映されない為動物の目許を思わせるが黒目がちでガラス玉のように無機質で、肉食動物より草食動物に似ているのはボクシングでは殴る事より避ける事の方に重きが置かれるからだろうか。
また「クリードⅡ(2018)」のライバルボクサーヴィクター・ドラゴはクリードより10cmも高い190cm超えの長身でしかもクリードより肉付きがよく、また年齢もクリードより若い。リングでにらみ合う二人は「同じ階級なのに軽く二階級は違う」という謎かけのような様相を呈していて(ヘビー級ならでは)、ヴィクターの放つパンチ一発一発には、例えそれが空振りであっても死の恐怖が付きまとう。理想の高身長彼氏を見上げるような姿勢のまま丸太ん棒の如き腕が繰り出すフルスイングをいいように浴びせられる一戦目の展開は余りに絶望的で緊張感と没入感が物凄く、また「最後は当然勝つにしてもこんな奴相手に一体どうやって…?」と先の展開の考察にのめり込んで行く。ドラゴのセコンドにはロッキーに負けて以来何もかもを失い復讐に燃える元・殺人マシーンのパパドラゴ(演:ドルフ・ラングレン)が付いていて、その荒んだ精神の産物こそが彼なのだという事実が一層凄みを増す。
前二作のライバルボクサーに比べると、いくら役作りを頑張ったからと言ってジョナサン・メジャース演じる「ダイヤモンド・デイム」では見劣りする。老け顔な上に困り顔で、役者としてもパッとしない三枚目の脇役俳優に過ぎない彼には一作目のリアル・ボクサーのような殺気混じりのオーラは飛ばせないし、体格は主人公と同程度で見た目も明らかにおっさんな為二作目のドラゴのように画的な絶望感を演出する事も出来ない。そもそも「アァイッ!」とか言いながらちょこまかと動き回り、中途半端なラフファイトに頼るようなザコムーブは自分から死亡フラグを立てに行っているような物で、彼が勝利したファイトからですらクリードにへし折られる画が容易に想像出来てしまう。それがそのまま再現されるだけであろう最終リングへの期待感も高まらない。
期待感が高まらない中迎える最終リングは下がったハードルの更に下をくぐるが如く酷い。「日本アニメへのオマージュ」がテーマの一つである本作では試合中選手の顔や体の部位にズームアップしてその狙いを表現したりスローで動きを追う演出が多様されていて、それはこれまでのシリーズ作とはかなり毛色の違うやり方だがこれはこれで悪くなく、本作もそこだけは成功していると言えるのだが、最終リングには選手二人がファンタジー色の強い世界観の中二人だけで打ち合うという意味不明な演出が施されていて、結局酷い。ダークな世界観の中岩山を背に打ち合ったりロープが鉄格子に変わったりする事の意図が分からないし、オーディエンスのリアクションも解説席の状況説明も無いから単調な殴り合いをただ眺めているしかなく、何も面白くない。これもどうやら監督による「日本アニメオマージュ」の一環らしいがどんなにアニメ好きだったとしても結局外国人には日本人のセンスが理解出来ないんだな、と腑に落ちるしかない。
グチャグチャと訳の分からない演出を加えてペチンペチンと単調に殴り合った挙句クライマックスではロッキーシリーズお決まりのテーマ曲がいけしゃあしゃあと流されるが、これには劇場でも堪らずおめぇぶっ殺すぞと呟いてしまう。ロッキーイズムを一切感じさせないボクシング映画にこの曲が流れる違和感は筆舌に尽くしがたい。これを流すという事は監督的にはそこがこの映画の一番の盛り上がりポイントだったのだと思うが、素面でやってこのセンスなのだから救い様がない。
ライバルボクサーの格に加えて醍醐味である最終リングもそんな感じで、本作は兎にも角にも盛り上がらない。
※※※※※※※※※ 以下本編のネタバレを含みます ※※※※※※※※※
✔ この作品が盛り上がらない理由はまだあって、それは例えば監督の映画運びが下手過ぎる事だ。クリードを演じるマイケル・B・ジョーダンの監督デビュー作でもある本作は「経験不足」では済まされない、彼の映画監督としてのセンスの無さのお陰で確固たる駄作に仕上がっている。
例えばライバルボクサー「ダイヤモンド・デイム」を例に挙げると、脚本上彼は20年近い刑務所暮らしの発端を作ったクリードの事を激しく恨んでいて、クリードの人生を壊す為にあれこれ画策しているキャラになっている筈なのだがデイム役のジョナサン・メジャースの演技を踏まえると「ムショ暮らしで闇落ちした復讐の鬼」と「長年のムショ暮らしのせいで一般社会の常識からズレてしまっていて、悪気はないのにちょいちょい粗相しちゃう可哀想なおじさん。でもボクシングの才能と王座奪取にかける想いは本物で、一回勝ったのを皮切りにオラオラしだしたのはちょっと調子に乗っちゃったのと、クリードに冷たい態度をとられた事に対する腹いせ」というどちらの受け取り方も出来、作中その二つのキャラクター像の間を行ったり来たりする。
映画中盤に「①デイムが現チャンピオンとのタイトル戦のマッチアップをクリードに打診し、断られる」→「➁デイムがムショ仲間を頼り、非情な手段を用いてタイトル戦を実現させる」→「③ラフファイトを交えつつチャンピオンに勝利してしまうデイム」→「④試合後リング上で《勝ったよ、兄弟》と呼び掛けるデイムを怪訝な表情で無言のまま見つめるクリード」→「⑤デイムがタイトル戦を実現させた手段を知るクリード」→「⑥クリードが話を聴く為に会いに行くと別人のように粗野なキャラクターに様変わりしているデイム」という流れがあるが、➁の非情な手段は「クリードへの復讐に燃えるデイムが彼の功績(ヘビー級チャンピオンのベルトと現チャンピオンのラテン系若手ボクサー)を破壊すべくムショに居た時からその概要を画策していた計画の一部」だったのか「ボクサーとしての残り時間が少ない事に焦ったデイムが矢も楯もたまらずムショ時代の習慣を発動してしまい、仲間に邪魔な奴を襲わせた」のかがよく分からない。「復讐の鬼」というキャラにするなら前者でなくてはならない筈なのだが➁のような非常手段をとる前にデイムは①のようにストレートな成功法を、持ち前の困り顔で不器用に一旦やってから実行するので「ムショナイズされているものの根は実直で、少し不器用なだけの人」なのか「クリードに人生を壊され復讐に燃える鬼」なのかが分からない、というか多分製作側も決め切れていない。
③の「ラフファイトで勝つ」にしてもちょっと腕の付け根を狙って殴ったり(反則ではない)肘で相手の頬を軽く切ったり(勝敗を決定付ける程のダメージなし)した程度な為「汚い手を使ってチャンピオンを潰した」のか「元々ボクシングの才能に溢れる人で、少しラフな手は使うものの四十絡みにして二十代のチャンプを実力で圧倒出来る(そうだとするなら本物の天才)」のかがはっきりしない。だからその後の④の、困り顔での呼びかけが「お前を利用してここまで来てやったぜ(ニヤリ)」なのか「兄弟…兄弟俺やったよ(涙」なのかが分からず、それを無言のまま怪訝な表情で見つめるクリードの真意も「こいつ汚い手ばかり使ってどういうつもりだ」なのか「厚意で組んでやったタイトルマッチで普通勝つかね、空気読めや」なのかが全然分からない、というかやはり製作陣が決め切れていない印象だ。同じように⑥でデイムが急に粗野なキャラクターに様変わりしたのも「素がこのキャラクターで、タイトルを奪取したこのタイミングでそれを解放すると始めから決めていた」のか「ムショ暮らし→チャンピオンの立場のギャップで調子に乗っちゃった+せっかく勝ったのに冷たい態度とりやがって」なのかが分からない。
「クリードの過去の過ちが悪魔を生んだ」というストーリーにするなら出所直後の「うちのジム来るか」というクリードの打診をありがたく受け取ってタイトル挑戦に意欲を見せるひたむきな描写、クリード宅を訪れてその娘と手話で会話する優しい描写、不器用ながらに気遣いを交えてクリードの妻と関わる描写等が全て邪魔をしてしまう。反対に「クリードのせいで棒に振ってしまった人生を取り返すため奮闘するも、ムショ暮らしで染み付いた素行の悪さが度々顔を出す」というキャラ付けだとすれば敵役ボクサーとして弱過ぎるし、自分のせいでそうなったデイムをクリードが倒す展開に勧善懲悪は成り立たない。作中の描写を全て直訳的にそのまま受け取るならデイムは「18年の刑期を経て四十絡みになるもボクシング王座に就く夢を真っ直ぐに追い、ムショ仕込みの荒技に頼る悪癖はあれど元々の素質で若手チャンピオンにすら圧勝してしまう」キャラクターという事になり、こっちを主人公にした方が面白い映画になりそうな程だ。それを無理矢理「悪」と定義付けて進行していく、「負け犬がやっぱり負ける」ストーリーが盛り上がりを見せる筈もない。
「主人公の友人が宿敵へと変貌する」という構図はそういう展開の多い日本のアニメ・漫画が好きな監督の着想によるものだという。マイケル・B・ジョーダンは「NARUTO -ナルト-」が好きなようなのでナルトとサスケが袂を分けたプロットを例に挙げるなら、サスケがナルトや木の葉を裏切るに至る経緯にはイタチ(作中一番の人気を誇るサスケの兄。死亡した際には後追い自殺が出た程)の死だとか木の葉の里やうちは一族の闇の部分が明るみに出るだとか、作者が長年かけて長々と組み立ててきた世界観がフリとして存在している。「親友が裏切って仇敵となる」というショッキングではあるが多分に無理のある展開に説得力を持たせるにはフリだとか伏線だとか、多分に作り込まれた世界観を持つ同じ世界線の別の何かだとか、様々な要素を複合的に混ぜ合わせる必要がある。
本作の脚本担当は監督とは別の人だが、監督の「友が敵に」という草案を脚本に落とし込み切れなかった印象だ。「友が敵になる」のならその友はクリードと同じ年頃でなければならないから四十絡みで敵になる理由は「クリードのせいでムショ暮らしを余儀なくされたから」にしよう→でもムショ暮らしのせいで18年もボクシングから離れていたのにクリードと対等に戦えるなんて超人過ぎてこっちの方がヒーローじみてくるから反則を用いるキャラにしておこう→でもボクシングの公式試合で使える反則なんかたかが知れている→強いのか卑怯なのかよく分からないキャラに→凄いキャラなのか悪いキャラなのかが曖昧に→そいつを倒すストーリーが盛り上がらない…ていうかクリードがわざわざ出て行ってボクシングの試合で倒す必要ある?母ちゃんが持ってた写真持って警察に相談に行くべき案件じゃね?といった具合で、無理矢理なプロットを叶える為に取って付けたような展開が齟齬を生み、その齟齬がまた別の齟齬を生み、それらを全て放置したまま映像化まで漕ぎつけた、この映画の製作過程は大体そんなところだ。自分の着想のせいで粗だらけになった脚本を撮影時に、確かなビジョンを基にした演出で補正していく事もマイケル・B・ジョーダンにはやはり出来ない。
「日本のアニメになぞらえて友が敵になる展開にしてみた」と監督は言うが、「日本のアニメになぞらえる」必要性は特にないし、「友が敵になる展開」についても「ストーリー」や「キャラプロット」、「メッセージ性」ではなくそれらを表現する上で必要になる手段の一つでしかない「展開の種類」を念頭に置いて製作する事自体そもそもズレている。「日本のアニメになぞらえて~」という発言の時点でマイケル・B・ジョーダンがこの作品の製作にあたって表現したい世界観を特に持ち合わせていなかった事が分かる。
映画というのは大抵の場合、何かしらのテーマを下敷きにして製作され、そしてそれには大抵の場合社会の風潮を反映した旬なテーマが選ばれる。今だと絶賛ポリコレブームだし、動物賛美が伸びてきている節もあるし、ロッキーの「男の人生」という流行りを無視したテーマが選ばれる事もたまにはある。しかし本作はストーリーの本筋をどの角度から何度見直してみても何のテーマも読み取れない。
「黒人賛美」だとするなら相手ボクサーや虐待施設職員が黒人である事の説明がつかないし、デイムを「白人の迫害により歪められ、闇落ちした古き悪しき黒人」の象徴として「新時代の清く正しい黒人」であるクリードがそれを打ち払う構図だとするならやはり虐待施設職員は白人でなければならない。「過去のトラウマと向き合い、戦う」というテーマだとするならデイムは過去のトラウマが生んだ悪鬼のようなキャラクターでなくてはならない筈だがそのキャラはブレブレで全く定まっていないし、そもそもクリード、お前も自分のせいでムショに入った親友を「手紙が届かなかったから」とかいう理由で放っておかず何とか探し出して面会に通ってやるぐらいするべきだったんじゃないのかという話になってしまい、クリード自体「清く正しいキャラ」として成立しているかどうか怪しい。唯一聴覚障害を抱える娘に家族全員で寄り添う描写だけは今最も旬なタイプのポリコレテーマだが映画の本筋にはほとんど関係ないし、メインテーマとも呼べない。この映画には大作には付き物の「テーマ」が存在しないが、その理由は驚くなかれ「監督が世間に向けて発信したいメッセージを特に持っていなかったから」だ。
そもそも「アニメ」とか「友が敵に」とか、それをロッキーの流れを汲む作品でやる必要がどこにあるのという話だ。ロッキーとクリードの全シリーズ作を観てもどこにもそんなプロットは存在していないし、ロッキーの本質的なテーマ(戦い抜いて生きる事を余儀なくされる、男の人生)ともクリードの本質的なテーマ(生まれつき抱えたハンデを払拭すべく戦う)ともかけ離れている。
本作はボクシングの試合シーンやそれにまつわるトレーニングシーン以外はそのほとんどがクリードの家族との関わりだとか、親との関わりだとか、クリードの過去のトラウマの話だとかそういう人間ドラマで埋められているがどれも素人考えの浅はかな発想で作られていて本当にしょうもない。映画をよく観ている人なら序盤の、ドンキで売っているようなフードを被れば着ぐるみになるタイプのパジャマを着たクリードが娘のおままごとに付き合うシーンを観ただけで「この映画ダメなやつだな」と勘付くだろう。そのシーンにしても妻と二人で乳繰り合うシーンにしても、娘と手話のみで会話する無音のまま長々と続くかったるいシーンも、台詞・間・空気感全部が本当にしょうもなくて、監督の「経験の浅さ」ではなく「センスの無さ」がダイレクトに伝わる。例えばクリードの前二作を撮った二人のような、まともな監督が制作していれば同じシーンも全く違う物に仕上がっていただろう。