✔ 「超高機能」であるが故に歌に関して「持っていない」AZKiだが、反対に「持っている」タイプのロボ子はやはりと言うか何と言うか「超低次機能者」だ。0期生の「Ray」のソロパートもよくよく聴いてみるとアホみたいに抜けた歌い方で上手くも何ともないが、それがロボ子の甘ったるい地声とマッチしてあの独特の「引っ掛かり」を生み出している。
「昔からいる」のに「超不人気」で「ホロメンの輪には参加出来ておらず」、常々「アホ丸出し」にして「怠惰」で「鈍重」、故に「普段の配信の質がドブ」とやはり何もかもが悪い意味でAZKiと真反対のロボ子だが、唯一つAZKiが何よりも欲しがった「歌い手としての素質」だけは、これだけはいい意味でAZKiとはやはり反対に備えている。歌を聴いて貰いたいがためにこの仕事をやっているAZKiの胸の内を思えばこの上なく皮肉な話だが、やはりどんなにだめな人間にも一縷の望みぐらいは常に残っているという事なのだろうし、どんなに完璧に見える人間にも狂おしい程の泣き所の一つぐらいはあるという事なのだろう。
歌に関してロボ子のように「持っている」人間がAZKiのように「持っていない」人間と比べて大きく、そして分かり易く違うのは「曲」や「キャラ付け」、「前提条件」等ではなく「自分自身」を商品化する事が出来るという事だ。
リルビの例を見れば分かり易い事だが、ロボ子の歌が人気を博した場合リスナーは「ロボ子を聴きに来る」。一方AZKiの歌が人気を博す事が今後あったとしてもリスナーがそれを聴くのは「AZKiを聴くため」ではなく、AZKiの歌う「曲を聴くため」だ。
星街やにじさんじ町田等も同様、彼女達の歌をリスナーが聴くのは「曲を聴くため」ではなく「彼女達自身を聴くため」で、この二つには大きな差がある。成功した場合アーティスト・クリエイター、場合に依ってはカリスマとして聴衆に認められるロボ子や星街に対してAZKiはどれだけ成功してもプロデューサーや作詞家・作曲家が表現したい世界観を聴衆に伝えるための、ボーカルという名の「楽器」でしかない。
歌い手を志す者からすればその二つには天と地程の差があり、ほとんどの者にとってそれは「グッドエンド」と「バッドエンド」、または「成功」と「失敗」、あるいは「頑張ってよかった」と「最初からやらなきゃよかった」、引いては「生きててよかった」と「死にたい」でもある。
✔ 1:17~ 長期療養から復帰後すぐ「今後は歌を頑張っていく」宣言をした天音。それと共に公開されたのがこのオリ曲だが、歌い方が変過ぎて曲も歌詞も何も入って来ない。サビのような曲調が激しくなる部分では節を付け過ぎでおフザケを疑う程だがこれだけ金をかけて作ったオリ曲なのだからきっと本人的には至って真面目にやっているのだろう。
何年か前から天音がこういうサチ子みたいな歌い方をするようになったのは前記事で書いたロボ子のような歌唱上の「引っ掛かり」が欲しいからだ。歌唱力を、例えAZKiのようなレベルまで高めてもそれだけでは聴衆の気を引けない事に気が付いた天音は星街やAdoのような攻撃的な歌い上げが界隈で流行っている事に着目しその再現を試みた結果こういう形になっている訳だが、残念な事に声も歌い方も性格もセンスも何もかもが二人とはかけ離れた天音にそれは出来なかったようだ。時代の最先端を取り入れようとして昭和の大御所のような演歌スタイルに行き着いてしまうダサさ・老獪さはある意味とても天音らしいと言えるのかも知れない。
天音もAZKi同様、歌に関しては「上手いだけ」で「持っていない」タイプだが、AZKiと違うのは成功している前例から長所や特徴を盗んで自分の歌に外付けして改善を試みるというアグレッシブさ……ではなく、そんな浅はかな手入れで何とかなるんじゃないかと思えてしまえ、あまつさえ大枚をはたいてそのスタイルのままMV付きのオリ曲を作るところまで行ってしまえる「青さ」だ。
こんな無理矢理にこぶしを回す程度の歌い方で成功してしまえるならAZKiのような意欲的にも技術的にも天音より秀でている歌い手がそれをやらない訳がないし、そんな事で成功出来る程人気商売の現場が甘くない事ぐらい大人なら考えればすぐに分かる。───言ってみれば天音はムキンクスでAZKiは悟空でありベジータであり、Pセルだ。「こんなパワー(握力)任せの無理矢理なやり方で上手くいくわけない」「このくらいの事が先達の歌い手達に出来なかった訳がない」という、たったその程度考えを巡らせる事も出来ない程に天音は青い。
アーティスト活動・クリエイター活動のような人気商売においてそれに従事する人間はあくまで自分自身の生まれ持った「らしさ」で戦っていくしかない。結果星街のように初段から響く者もいればAZKiのようにどれだけ頑張っても死ぬまで聴いて貰えない者もいる訳だが、その間を小手先で行き来出来ると思えてしまうのはさすがに舐めてんのかてめえという話になってしまう。天音は多分先達の歌い手達が自分「らしさ」に時には後押しされ時には苦しめられながらもそこから逃げずに戦い抜いている事実とそこに宿る美学、「だからこそ歌は美しい」という大前提を知らないし、またそれを感じ取れる程誰かの歌に没入して聴き入った事もない。───要するに天音は「歌」がまるで好きではない。
人に大事にされなかった人間はやはり自分以外の人やものを大事に思えないし、また心の底から何かに敬意を払う事も出来ない。天音にとって「歌」やそれに従事する「歌い手達」はただの「コンテンツ」であり「モデルタイプ」だ。『やるべき事』に「歌」を選びそれを成すため「モデルタイプ」達を観察して真似る……天音にとっての歌い手活動とはただそれだけの作業に過ぎない。(天音と違って)本気で生きている人達、(AZKiのように)すがるような想いで歌い続ける人達を冒涜するとても浅ましい行いだが、天音は自分がこれまでの人生で人にやられてきた事をそのまま別の人に返しているだけなのだから仕方がない。
天音を見れば分かる通り、「持っていない」タイプの歌い手は大変だ。自分を商品化出来ないため高い作曲家に依頼するだとかモデルやステージを豪華にして世界観から演出するだとか、無理矢理にでも個性を捻出しようとするだとか前提条件を用意しなければどれだけ上手くてもそもそも聴いて貰えない。特に歌に力を入れてきた訳ではなく歌い慣れてすらいないこの段階で独自性を見せつける事が出来るロボ子はやはり天音などとは根本的にまるで別の、歌に関して「持っている」タイプだと言えるだろう。