【宮崎駿、下降の第一歩】
「好きなジブリ作品は?」と尋ねて返って来るタイトルは、大抵その人が10代の前半に観て感銘を受けた物である。
現在40前後の人だと「天空の城ラピュタ」、30代半ばだと「もののけ姫」、20代だと「ハウルの動く城」といった所だろうか。
ジブリ作品、とりわけ宮崎駿の監督作品は「千と千尋」以降どんどんクオリティを落としていると思うが、人間単純な物で、一番感受性の強い時に観た物が一番面白い物として刷り込まれてしまうのだろう。
ちなみに冒頭の質問は回答者の性格占いのような使い方も出来て、「となりのトトロ」と答える人は、多分それと「千と千尋」ぐらいしか観ていないし、「紅の豚」や「平成狸合戦ぽんぽこ」を挙げる人は創作物の妙を読み取る通な人、「火垂るの墓」と答える人は精神破綻寸前、ステージ4のメンヘラである。
百発百中なので、合コン等で試してみて欲しい。
冗談はさておき、冒頭の質問に「ジブリ作品はひとつも観ていない」と答える人は悪い意味で特殊な育ちをしている事が多く、激しく空気が読めず周りに度々迷惑をかける人や、メンヘラ気質の人が多いというのは本当にあると思う。
こちらは本当に確かだと思うので、もしそんな人に出会う事があれば意識してみて欲しい。
冗談はこのへんにして、「千と千尋の神隠し」は、宮崎監督が脚本のストーリー部分を整合性やリアリティ、流れの自然さの意味で突き詰めなくなり、いつもどこか破綻している作品を作るようになった、その第一作目である。
ひとつ前の監督作は「もののけ姫」になるが、ここまで担当した作品はどれも、普遍的なメッセージを内包し、整合性を詰め、キャラクターの心の動きや関係性の構築、ストーリー展開のスピードや間、その全てが自然かつ完璧なバランスで成り立っていた。
「千と千尋」以降、彼の作品は回を追う毎にこれらを保てなくなって行く。
人によっては「年を取って耄碌(もうろく)したから」と言うだろう。
それも多分にありそうだが、それ以上に彼は「もののけ姫」までの作品群で自分の表現したい物を全部出しきってしまったのだと思う。
若い頃から頭に湧いて止まらない、現実とかけ離れた世界。
いる筈のない生き物、現実世界の誰よりも素晴らしい主人公、それを引き立てる醜い悪役。世の中への怒り、これまでの人生で培ったコンプレックス。
クリエイターは、そういった自分の中に渦巻く澱を、作品にぶつける事で物作りをする訳だが、ある程度放出すると、大抵の者が勢いを失ってしまい、考えながら、絞り出すように作品を作るようになる。
要するにクリエイターのアイディアや情熱は有限で、人によって差はあれど、一定量を放出してしまうとそれ以降の作品は大きく(大抵は悪い意味で)形を変えてしまう、という事だ。
問題点を分かり易い方から挙げていくと、「千と千尋の神隠し」は脚本の組み方がかなり雑で、不自然且つ無理矢理な展開が目立つ。
序盤「となりのトトロ」的に新しい街に主人公家族を放り込んで、IQの低い両親が謎の行動力で無理矢理主人公を異世界に引っ張り込み、面倒だから出しちまえ、と雑に彼氏役を投入し、その後の展開やセリフも逐一無理矢理で取って付けたような物ばかりである。
どうしてその流れになったのか段階的に描写しなければ没入感は削がれてしまうし、キャラのセリフや関係性も、いちいちフリや切っ掛けを作らなければ実質的には成立しないのだ。
本作はそれを全体的に怠っている。
視聴に耐えられない程ではないが、「もののけ姫」までの宮崎作品と比べると雲泥の差がある。
ピンと来ない人は、主人公が電車から降りる~エンドロールまでの流れをもう一度見直してみるといい。それまでに説明できていなかった要素や宙に浮いているキャラを、口先のセリフだけで手短に片づけ、モブを含めた全キャラクターが情緒不安定で変なセリフを口にする。そして何かを示す訳でも、物語に落ちをつける訳でも意外性を持たせる訳でもない、フワっとしたエンディングに繋がる。
宮崎監督はスマホのような新しい物を嫌ったり、「子供は昔ながらの環境で育てるべき」といった思想を持っているタイプの、度の強い懐古主義者で、本作の「小さな女の子を、レトロで趣のある仕事場で、昔ながらのスタイルで働かせる話が作りたい」という大元の発想には、それがよく表れている。
そこに自身の心象風景や、「現実、かくあるべき」みたいな理想を反映したシーンをたっぷり盛り込んでいて、面倒な年寄りの煩わしい説教や、癖(へき)をしつこく押し付けられている感が否めない。
次作以降増々強まって鑑賞に支障を来すレベルにまでなるこの傾向は、本作では強力な作画、細部までこだわって作り込まれた世界感で何とかスルー出来るかな、というところだ。
「ストーリー、整合性、メッセージ性」はもちろん映画の肝だと思うが、それらを欠いていても映像美や世界観の作り込み、一つ一つの描写に力を込めれば、人を沸かせる、価値ある一本として成り立たせる事が出来る、というのはアニメ映画の面白い所だと思う。
2021年の細田監督作品「竜とそばかすの姫」はストーリーや整合性、リアリティ等何もかもが崩壊していて、見るに堪えない本当に酷い作品だと思うが、監督入魂のバーチャル世界の作り込み、楽曲部分の素晴らしさで何とか一定の価値は保てている。
「千と千尋の神隠し」と「竜とそばかすの姫」はレベルは違えど、作品としての価値の出し方、映画としての成り立ちは奇しくも同じ、と言えるだろう。
ついでに言うなら「竜とそばかす」は「千と千尋」から結構色んな要素をパクっていて、共通点を探すのも面白い。
「千と千尋の神隠し」は大人が観ると色々引っかかるが、子供や、表面的な描写が盛られているだけで楽しくなれちゃうタイプの大人には申し分ない一本だ。私も前述したような粗に逐一引っかかりながらも、全体的に楽しく鑑賞させて貰った。
しかし「これがジブリ作品・宮崎作品の、20年に渡る迷走の序章だ」という前提の下鑑賞すると、また違った味わい方ができる。
昨今の「セカイ系アニメ」なるジャンルが芯を食わない作品を産出し続けている様子を見ても、宮崎駿を源流とするアニメ流派は、もうどん詰まりに来ているのだと思う。
ローションみたいな粘っこい涙や、テカテカの食物をジュルジュルすする描写を描かないタイプの、新しいアニメ畑の天才の登場が、待ち遠しくてならない。